半夏厚朴湯
春は日本社会では新しい年度が始まる季節である。職場や学校の顔ぶれが変わったり、自分の定席の位置が変わったり。一方で、お花見や各種のセレモニーで環境は華やいだ雰囲気となることが多い。そんな春の環境の変化や雰囲気が、気付かぬうちに大きなストレスになってしまう場合もある。なんとなく気分がふさぐ、すべてのことが面倒くさく思えてなにもする気が起きないなど、感じ方やストレスの現れ方は人によってさまざまであるが、ストレス由来と思われる症状の中で、のどにピンポン球が詰まったような感じがする、咽喉や食道部に何かがはりついたような感じがする、というのがある。実際に球が詰まっているわけではないし、のどが腫れているというわけでもないのだが、どういうわけだかのどの奥に異物感を強く感じる症状である。“ヒステリー球”と呼ばれることもあるこの症状がこの処方を選ぶひとつの目安となるのだそうだが、気分が下向き加減で胃腸の調子もよろしくない、気分がふさぐ、そんなときに服用を勧められるのが半夏厚朴湯である。
半夏厚朴湯は、半夏、 厚朴、 茯苓、 蘇葉、 生姜の5種類の生薬で構成される。以下、それぞれを少しずつ紹介しよう。
田畑に生える繁殖力の強い雑草でサトイモの仲間であるカラスビシャクは、サトイモ目独特の仏炎苞がむち状の付属物を包んでいる独特な形状をもち、薬用部位はその塊茎である。半夏は、鎮静作用や鎮吐作用を期待して漢方処方に配合される。生薬が小さめの栗を思わせる様相で、真ん中に芽となる“へそ”があることから、ヘソクリとも呼ばれる。また一説では、畑仕事の合間に塊茎を掘って溜めておくと、生薬問屋が結構いい値段で買い取ってくれて「ヘソクリ金」になった、というのが名前の由来であるというのもある。生薬を刻んだものの断面は白くて粉っぽく、なめるとえぐ味が非常に強い。古来、新鮮なものより収穫後少し貯蔵した古めのものを使った方がよろしいとされる生薬である。
初夏の新緑の山肌を眺めた時にひときわ白っぽく、ぽつりぽつりと現れる大きな木は、たいていホオノキである。1枚1枚の葉が大きくて分厚いので、ちょっとした食器代わりに使えたり、おかず味噌を焼いたり食品を包んだりするのにも利用される。そのホオノキの樹皮が生薬の厚朴である。揮発性のある芳香成分やアルカロイドを含んでおり、鎮痛・鎮痙作用があるとされる。
主に松の根に好んでとりつく菌の菌核で、種類としてはキノコの仲間である。微弱だが特徴的な香りがあり、精神安定の効果があると考えられている。最近日本で流通する茯苓は、中国産栽培品の大きな菌核の真ん中の綺麗なところだけを選んで四角いタイル状に切り出したものが多く、その形状を見ただけでは茯苓が菌核であることは想像しにくいだろう。一昔前は、日本でも松の木の根元を茯苓突きという道具で刺して探りながら野生品を採集する人たちがいて、日本産茯苓が流通していたそうである。現在でも茯苓は日本の野山にあるのだろうが、もう商業的に採集する人がいなくなってしまった。
日本では、いわゆるシソらしい香りのもとであるペリルアルデヒドが規定量以上含まれているシソの葉と枝先のみを生薬として使う。ただし、葉の色は両面または片面が赤紫色であることが必要で、刺し身のつまに使われる大葉は残念ながら生薬としては使えない。漢方では、蘇葉は目に見えない活力のもとである「気」を身体中にうまく巡らせる働きがある生薬で、香りが強いものがよいとされる。半夏とは反対に、できるだけ新鮮なものを使うのがよいとされる生薬である。
料理に使うものと同じ生姜である。緑の苞葉に包まれた花蕾の中から1日に一つずつ花が現れて咲くが、日本での開花はまれである。生姜には芳香性健胃の作用のほかに身体を温める作用があることがよく知られるようになったが、この処方の中ではもうひとつ役割があると考えられている。半夏と組み合わせることで、半夏の作用を緩和しているというのである。確かに、半夏は『神農本草経』という古代中国の生薬の教科書でも、作用が強く“下薬”に分類されている。また実際に、半夏を味見してそのえぐ味が口やのどに残って困ったときに生姜汁を飲んで事なきを得た、という体験談を話す人もいる。