タバコ
ナス科:Solanaceae (生薬名:タバコ)Nicotiana tabacum Linn.
「タバコ、と聞いて何が思い浮かぶ?」筆者の研究室の学生・大学院生に聞いてみたところ、返ってきたのは「細長い白い紙で巻いたもの」「ぽわーっと煙を吐いて吸っている姿」など、紙巻きたばこをイメージしてのものだろうと思われるものが多くなりました。やはり、一般的にはタバコは嗜好品で喫煙するものとして認識されているようです。しかし、タバコにはまったく別な一面があります。意外かもしれませんが、タバコは植物生理学等の研究に使用する実験材料としては横綱格と言っても良いほどの存在なのです。
植物バイオテクノロジーという分野がまだ新しいものであった頃は、植物の培養細胞を使った研究がとても盛んに行われていました。その頃から、タバコの培養細胞は研究材料として大いに利用され、特殊な性質を持った系統が育種されるなどして世界中で利用されるようになりました。特に、日本で開発されたBY-2と呼ばれるタバコ培養細胞株は、増殖スピードが早いことなどいくつもの研究に有利な性質を備えた培養細胞株として世界中で研究に多用されるようになり、シロイヌナズナと並んで、研究用植物培養細胞の世界標準のような存在になっています。
細胞の増殖スピードが早いということは、植物培養細胞を使った研究をする上で非常に大きなメリットなのですが、さらにタバコの場合はもう一つ、培養細胞の状態から元の植物の姿に戻すのが比較的容易であるという大きなメリットがあります。これはどういうことかというと、一旦、脱分化させて細胞それぞれの特殊機能を持たない、細胞の赤ちゃんのような状態にして(これが培養細胞の状態です)増やした培養細胞を、もう一度、元の葉や茎や根といった、それぞれ特徴と機能を備えた組織に戻す(これを再分化といいます)ことが、他の植物の培養細胞よりも高い成功率でできるのです。
植物細胞は動物細胞と異なり、全能性といって、もともとどんな細胞にでも変化することができる能力を潜在的に持っています。葉の細胞でも茎の細胞でも、それらを取ってきて条件を整えた培地の上で育てると、どんな組織にでも変化できる未分化な状態の細胞にすることができるのです。培養細胞を使った実験ではこの未分化な状態で増殖させた細胞を使って様々な実験をすることが多く、これに実験的処理を施したあと、元の葉や茎のある植物の状態に戻し、先の実験的処理でどんな変化が起きたかを観察するのです。このような実験をする時に、タバコの培養細胞は利用しやすいということなのです。
植物培養細胞を使った研究の全盛期の後、DNAの塩基配列を解析する技術が進むと、タバコはその葉緑体遺伝子がいち早く解読され、様々な研究にそのクローンが提供されました。筆者も博士課程の学生だった時に、それを使ってシソの遺伝的背景を探る実験をしたことがあります。また、植物遺伝子の核酸配列が直接解析できるようになった後も培養細胞は使われなくなったわけではなく、その技術や手法は遺伝子解析技術と組み合わせてうまく利用されています。ここでも、タバコの培養細胞は使用される頻度が高い細胞です。
DNAやRNAなど核酸を利用した研究手法では、植物に病気を起こさせるウイルスや菌が持っている”感染する仕組み”などをうまく利用して、研究目的の遺伝子を含む核酸配列をターゲットの植物の遺伝子の中に入れ込んだり、入れた遺伝子を非常に強く働かせたりすることがあります。そのような遺伝子組み換えの技術にしばしば利用されるのが、タバコモザイクウイルスというウイルス由来の装置です。
タバコモザイクウイルスは、タバコに感染するとタバコの葉にモザイク状の模様ができて成長が悪くなってしまうので、タバコを育てる農家にとっては厄介者ですが、1800年代後半に発見され、ウイルスとしての実体が初めて明らかにされたモノという歴史もあり、その後のウイルスに関する研究が発展するきっかけとなったという意味においては、有用であったといえるのではないでしょうか。タバコモザイクウイルスはタバコが持っていたウイルスなので、タバコという植物が無くてはことは始まりません。タバコがあったから、ウイルス由来の様々な便利な装置が開発された、わけです。
タバコという植物と、植物の細胞や遺伝子に関する研究との関わりを少々紹介させていただきました。富士山だって、山梨県側から見れば、静岡県側から見る姿とは異なった姿が見られます。同様に、タバコもいつもとは違った角度から眺めて見ると、意外な一面が見えてくるものです。現在でも世界中で汎用されている、タバコという実験植物について、少し知っていただけたなら幸いです。
解説:伊藤美千穂(京都大学大学院) 撮影場所:京都薬用植物園